えすての海外移住日記

旧ブログ名『もしもあの時、シンガポールでエステティシャンになっていたら。』5年越しの海外移住を実現するべく、住みたい国を探す旅に出ています。

わたしはマララ

昨日、2016年初✨映画に行きました🎬


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見たのはこれ!

映画『わたしはマララ』公式サイト



今回は何を見るか決めずに行き、映画館で表を見てから決めました👍


ちなみに平日ということもあり、「わたしはマララ」の観客は私を含め2人しかいませんでした😂


ご存知の通り、この映画はマララさんの身や身の周りで起こっていることを取り上げています。本も出ていますね📕
マララさんについてはこちら→マララ・ユスフザイ - Wikipedia


今気づきましたが、マララさんと私の弟って同学年…
彼は今日、明日とセンター試験に挑んでいます。
そういう年代の子なのね〜( ̄▽ ̄)


内容は映画を見れば分かることなので、ここでは私が思ったことを書き残しておきたいと思います✍️


私、大学は教育学部出身ということもあり、教育に関しては関心が高い方だと思います。
(幼稚園、小学校、中学校、高校の教員免許を持っていますが、教員にはなりませんでした。これからもなることはないと思います。)
教員ではありませんが仕事で子どもを育てることに関わっているので、どうやって育てるか?どうやって教えるか?ということは私にとって日々の課題です。


少し前に私はあることを思いつきました。
学校のない世界があったら面白いんじゃないかな?
正確に言うと、学校のない世界とは、学校がなくても教育が受けられる世界です。


なぜこんなことを思ったかというと、
  • 不登校について
  • 学校でのいじめについて
  • 学校で起きたことが原因で自殺する子どもがいることについて
こういったことを大学時代の友人と議論していたからです。


学校に行くといじめられて自殺してしまうなら、学校に行かない選択をしてもいいのではないか?

アメリカでは学校に行かずにホームスクーリングを選ぶことができるのだから、日本でも学校に行かずに教育を受けられるようになるといいのではないか?



極めて単純かもしれませんが、今の日本の学校教育における問題を考えると、上に赤字で書いたような思いにいたりました。


それに、私たちには学校を卒業したあと、学校のような一つの箱に閉じこもって生活しているわけではありません。
会社に勤めていても会社内に友だちがいるとは限らないし、会社の外で習い事やサークルで交友関係を広げたり、近所付き合いがあったりすると思います。
大人が会社の外で友だちと遊ぶように、子どもだって学校という一つの箱にこだわる必要はないということです。


※私が思い描く学校のない世界についてはもっと語りたいところですが、映画の話からどんどん遠のくので、また別の機会に語りたいと思います。笑




学校のない世界を思いついた私は映画「わたしはマララ」を見て、世界には学校に行きたくても行けない子どもが大勢いるという現実を突きつけられました。


知ってたはずの現実。
でも、どこかに忘れてきていました。。。


学校が爆破されて、昨日までそこにあった校舎が跡形も無くなっている。
学校に行くなと命令されて、学校に行ったら殺される。


ありえない現実。
だけど、地球のどこかで起こっていること。。。


日本では、字が読めることや字が書けることはほとんど当たり前のことです。障がいのある人や寝たきりの高齢者、乳幼児以外はみんなできることだと思い込んでいます。


しかし、映画に出てくるパキスタンでは字が読めることや字が書けることは当たり前ではありません。
(私は5年前にインドに行ったとき、実際に字が読めない人に出会って、そのことを目の当たりにしました。)



字が読めることで、情報を得ることができる。
情報を得ることで、自立することができる。
自立することで、自由に生きることができる。


これが、学校に行って教育を受けることの大きな意味だと、映画を見て思いました。


学校は何のために行くのか?教育とは何なのか?等々、答えのない問いを突きつけられ、国内の現状を見ることだけでなく、視野を広げて考えなければいけないと感じました。